類まれな上野の文化と歩み
黒船亭は上野の不忍池に曲がる角にあります。ここは元黒門町という名前でしたが、今は上野二丁目になっています。
上野は上野台と呼ばれる武蔵野台地の東端に有ります。ですから街から上野公園に向かう道は上り坂になっており、その一番上に徳川家の菩提樹である寛永寺が有るのです。上野の山と呼ばれる由縁です。
縄文時代不忍池は、上野台と本郷台に囲まれた海だったとも言われています。秋葉原方面から上野の山に至る中央通りは、将軍が上野に参拝する道でした。公園の入り口には川が流れ三つの橋が架かっていました。みはしと呼ばれる由縁です。その真ん中の橋を将軍が渡り左右は武士や町人が渡りました。上野の山では官軍と彰義隊の戦いがあり、官軍の攻撃隊長であった西郷隆盛の像が有ります。その裏に彰義隊の墓があります。鹿児島の西郷隆盛の像が上野にある理由です。鹿児島では軍服を着た西郷像が上野では着流し姿です。正確な理由は分かっていませんが皆さんも考えてみて下さい。
戊辰戦争によって上野の山は焼け野原になりました。そこから立ち直った上野の山は上野公園として誕生、桜が咲き国立博物館等が拠点になり動物園も開園しました。明治22年には東京美術学校が出来、文化の森上野公園が出来ています。関東大震災、戦争など経て上野の山は大きく成長しました。この様な歴史の背景を持つ上野の街は城下町です。不忍池の先まで大きな城下町だったので寛永寺の鐘の音が届かず今の精養軒の下に時の鐘が存在します。不忍池の向こう岸まで届くために有ったものです。
その歴史の中に黒船亭は存在します。活性の有る街と文化の森をつなぐ街です。よく下町上野は気さくな街と表現されます。その通りなのですがごちゃごちゃした街ではありません。バレーやオペラを見に来るお客様、修学旅行生、買い物のアメ横など色とりどりのお客様で溢れています。夜になると昔の花柳界の賑わいが残っています。
江戸の文化にはわび、さび、いきの美学が残っています。昔から有る店はそのことを大切にし、新しい文化と融合した街が現在の上野です。
黒船亭は職人文化の香りが残る店です。どこかに江戸っ子の香りを感じて頂ければ幸せです。